手のひらの温度
23時すぎ。
玄関の鍵を回す音が、やけに大きく響いた。深夜の集合住宅は、物音をすべて拾う。
男は、革靴を脱いで、揃えずに上がった。スーツの上着を、椅子の背にかける。ネクタイをゆるめると、それだけで一日の半分くらいが、肩から落ちていった。
終電のひとつ前に乗れた。それだけが、今日の小さな手柄だった。
帰りの電車で、向かいに座った女が、肩にもたれかかってきた他人だった。眠っているだけだ。男は身を固くして、降りるまで動かなかった。人の重みなど、もう何年も、ただ気まずいだけのものになっていた。
台所の流しに、夕方の皿が残っている。妻が使った分だ。先に食べて、先に休んでいる。冷蔵庫には、ラップのかかった皿が一枚、取り分けてあるはずだった。
腹は、減っていなかった。何を食べたかも、もう思い出せない。
蛇口をひねると、ぬるい湯が手の甲を伝った。その温度に、ふと手が止まる。
人の肌の、ちょうどこのくらいの温さだ。そんなことを、急に思い出した。
リビングの照明は、半分だけ落としてある。テレビは消えていた。換気扇の低い音だけが、台所に残っている。
皿を一枚ずつ洗って、伏せていく。最後の一枚を置いて、手を拭いた。タオルの繊維が、少し湿っている。
エアコンが、効きすぎていた。妻が消し忘れたのだろう。腕の毛が、うっすら逆立っている。リモコンを探すのも面倒で、そのままにした。
寝室のドアは、閉まっていた。このごろは、眠る時間がずれている。それを寂しいと呼ぶのか、楽だと呼ぶのか。はっきりとは、決めていなかった。
0時を回った。
ソファに腰を下ろすと、座面がひやりと冷たい。誰も座っていなかった場所の、置き去りの冷たさだ。
窓の外で、雨が降り始めていた。細かい、音のしない雨だ。網戸ごしに、濡れたアスファルトの匂いが上がってくる。
その匂いで、もっと昔のことが浮かんだ。
名前は、すぐには出てこなかった。顔も、輪郭が少しぼやけている。何年も、思い出そうとしてこなかったせいだ。
ただ、手のひらの感触だけが、妙にはっきりしていた。
眠っていると、その人はいつも背中に手を当ててきた。押すでもない。撫でるでもない。ただ、置くだけだ。
その手の重さで、自分が今どこにいるのかが分かった。暗い部屋でも、迷子にならずに済んだ。そういう夜が、何度かあった。
体のどこかに、その人の手の形だけが、型のように残っている気がする。そういうものは、写真にも、言葉にも、残らない。
出会いがどうだったのかは、もう思い出せない。気がついたら、その人の部屋にいた。それくらいの始まり方だった。
狭いアパートだった。夏で、どこかの窓の風鈴が、ときどき鳴っていた。冷房が古くて、よく効かなかった。汗ばんだ背中を、シーツがはりつくように冷ましていく。二人で天井を見て、何をするでもなく、ただ涼しくなるのを待っていた。
枕元に、小さな扇風機があった。首を振るたびに、かたん、と音がした。その音が、いつのまにか眠りの合図になっていた。
冷蔵庫には、いつも麦茶が入っていた。夜中に喉が渇くと、二人で同じグラスを回し飲みした。氷の溶けた、薄い麦茶の味を、今でも舌の奥が覚えている。
彼女は、よく笑う人ではなかった。口数も、多くなかった。それでも、隣にいて息苦しくなる相手ではなかった。
眠るとき、決まって男の背中に手を置いた。理由を聞いたことはない。聞くようなことでもなかった。手のひらは、いつも少しだけ冷たくて、それがすぐに、こちらの体温と同じになった。
朝になると、先に起きて、湯を沸かしていた。インスタントの、安いコーヒーの匂いがした。男はそれを、まだ半分眠ったまま、布団の中で聞いていた。起きてもいいし、もう少し寝ていてもいい。どちらでも責められない朝だった。
特別に好きだったわけではない。長く続いたわけでもない。半年も、なかったと思う。
終わり方も、覚えていない。喧嘩をした記憶もない。ただ、連絡の間隔が伸びて、いつのまにか途切れた。それだけだ。
なのに、あの手のひらの温さだけは、十年以上経っても消えなかった。
1時すぎ。
スマホを手に取った。
画面の光が、暗い部屋にぽつんと浮かぶ。連絡先をたどる指が、途中で止まった。
もう、番号は残っていない。名前で探したところで、たぶん何も出てこないだろう。出てきたところで、打つ言葉もない。
それでいい。手を引っ込めて、スマホを画面ごと裏返した。
テーブルの上で、画面の光が消える。部屋が、また一段暗くなった。
あの頃の自分は、人前でいつも力が入っていた。仕事でも、友人といるときでも。ちゃんとしていなければ、という構えが、肩から抜けなかった。隙を見せれば、誰かに何かを取られる。そう思っていた節がある。
その人の前でだけ、それがほどけた。
かっこをつけることを、忘れていられた。口を開けて眠っていても平気だった。朝、髪がはねていても、笑われて終わるだけだった。腹が鳴っても、気にならなかった。
何を話したかは、ほとんど覚えていない。覚えているのは、話さなくてよかった時間のほうだ。
黙って並んでいても、間が苦しくならなかった。沈黙が、責められているように感じなかった。次に何を言うべきか、頭の隅で探さずに済んだ。あんな静けさは、後にも先にも、そう何度もなかった。
技術がどうとか、そういう話ではなかった。むしろ、何も上手くやろうとしなくてよかった。それが、たぶん、いちばん深いところまで届いた理由だ。
無防備でいられる。それが何だったのか、当時は分かっていなかった。
今になって、ようやく値段がついた気がする。失くしてからつく値段というのが、世の中にはある。
あの人が特別だったのか、若かった自分が無防備でいられただけなのか。たぶん、その両方だ。どちらか一方では、あの温度にはならなかった。
2時。
やかんを火にかけた。
青い炎が、暗い台所をわずかに照らす。湯が沸くまでの数分を、ただ立って待った。手持ち無沙汰に、シンクの縁に残った水滴を、指でなぞる。
冷蔵庫が、ぶうん、と低く鳴って、また静かになった。古い家の、夜の音だ。
やかんが鳴る前に火を止めて、茶を淹れる。寝室の前を通ると、ドアは、いつのまにか細く開いていた。妻の寝息が、規則正しく聞こえてくる。
この人のことは、ちゃんと好きだ。それは、嘘ではない。並んで暮らす穏やかさを、安いものだとも思わない。朝に「いってらっしゃい」と言われる生活を、手放したいわけでもない。
ただ、人が誰かの前で鎧を脱げる回数には、限りがあるのかもしれない。若い頃に、それを一度、使い切ってしまった。そんな気がしただけのことだ。
比べているわけではない。比べたところで、どちらも遠くなるだけだ。あの夏の手のひらと、隣で眠る寝息は、別々の場所に、別々に置いておけばいい。
リビングに戻って、湯のみを両手で包んだ。手のひらが、ゆっくりと温まっていく。あの夜の、背中に置かれた手の温度に、少しだけ似ていた。
窓の雨は、まだやまない。湯気が立ちのぼって、天井の手前で、音もなく消えた。
その温かさが手のひらから逃げないうちに、もう一口だけ、飲んだ。
飲み終えて、湯のみを流しに置く。冷えていく陶器の重さを、しばらく手のひらで覚えていた。
寝室に入る前に、リビングのエアコンを切った。室外機の音が止んで、雨の音が、ひとまわり大きくなった。
明日も、いつも通りの顔で、家を出る。それで、いい。

