四文字
二十二時すぎ。
玄関の鍵を回す音が、廊下に響いた。
他に、音はない。
靴を脱ぐと、片方が転がって、壁にあたって止まった。
拾う気にもならなかった。
部屋は暗いままだった。
電気をつけるのが、なんとなく億劫だった。
スーツのまま、しばらく玄関に立っていた。
帰ってきても、誰も「おかえり」とは言わない。
言わないことに、もう慣れている。
慣れたつもりで、いる。
ネクタイをゆるめた。
靴下を脱ぐ。
フローリングが、足の裏にひやりと来た。
その冷たさだけが、今日いちばん確かな感触だった。
二十三時すぎ。
テレビをつけた。
見たい番組が、あるわけじゃない。
無音の部屋に、耐えられないだけだった。
音は、小さく絞ってある。
画面の中で、誰かが口を大きく開けて笑っている。
笑い声は、ずっと遠くで鳴っていた。
冷蔵庫を開けた。
缶ビールが、一本。
昨日の総菜が、ラップをかけたまま残っている。
それには、手を伸ばさなかった。
プルタブを起こす音が、やけに大きく聞こえた。
ひとくち飲んで、ソファに沈む。
ビールは、とっくに冷たさを失っていた。
充電器を探して、引き出しを開けた。
コードの束の下から、古い写真が一枚出てきた。
海だった。
誰かと並んで、肩を寄せて笑っている。
日付の記憶は、もうない。
写真を、元の場所に戻した。
裏返して、その上にコードを乗せた。
窓の外で、雨が降りはじめたらしい。
ガラスを伝う線が、街の灯りを滲ませている。
零時を回った。
スマホを、手に取った。
特に、用はない。
ニュースを流し読みする。
明日の天気を、確かめる。
指が、行き場をなくして画面をさまよった。
検索窓のカーソルが、点滅している。
そこに、ひとつの名前を打った。
打って、止まる。
名字と、名前。
たった四文字。
それだけのことが、やけに重い。
昔は、毎日のように呼んでいた。
今は、もう何年も口にしていない。
声に出したら、どんな響きだったか。それも、思い出せなかった。
一文字、消した。
また打った。
また消した。
その指の動きを、何度繰り返しただろう。
画面の明かりが、暗い天井に届いては消える。
一時すぎ。
結局、検索のボタンを押した。
写真が、並んでいく。
知らない街。
知らない店。
知らない笑顔。
隣に、知らない男がいた。
小さな子どもが、女の膝で口を開けて笑っている。
幸せそうだった。
よかった、と思う。
そう思えた自分に、少しだけ驚いた。
ただ、おかしなことがあった。
その顔が、うまく像を結ばない。
覚えているはずの顔と、画面の中の顔。
そのあいだに、薄い膜のようなずれがある。
笑い方も。
髪のおろし方も。
目尻に寄るしわも。
どれも、少しずつ違っていた。
記憶のほうが、どこか若かった。
どこか、優しすぎた。
会いたかったのは、この人だったか。
それとも、この人を好きでいられた頃の、自分のほうか。
しばらく、画面を見つめたまま動かなかった。
雨の音が、急に近くなった気がした。
二時。
スマホを裏返して、テーブルに置いた。
光が消えて、部屋が一段、暗くなる。
キッチンに立った。
やかんに、水を入れる。
火にかけると、青い炎が、暗い台所をぼんやり照らした。
湯が沸くまでの数分が、やけに長い。
冷蔵庫が、低く唸っている。
雨は、まだ降っていた。
戸棚から、インスタントの粉を出した。
マグに落として、湯を注ぐ。
甘ったるい匂いが、ふわりと立った。
コーンスープだった。
こんな時間に、飲むものじゃない。
それでも、両手で包むと、少しだけあたたかい。
ひとくち飲む。
舌の先が、じんと熱を持った。
顔がうまく思い出せないのは、もう、十分に遠くまで来たということかもしれない。
ソファに、戻る。
テレビは、まだついていた。
誰かが、音のないまま笑っている。
検索の履歴は、消さなかった。
消すほどのものでも、もう、なかった。
引き出しの中の写真も、明日になれば、たぶん忘れている。
雨が、屋根を撫でていく。
朝までには、やむだろう。
男はマグを両手で持ったまま、ゆっくり目を閉じた。
