四文字

深 夜 の 短 編

四文字

よみきり / 約 9 分

二十二時すぎ。

玄関の鍵を回す音が、廊下に響いた。

他に、音はない。

靴を脱ぐと、片方が転がって、壁にあたって止まった。

拾う気にもならなかった。

部屋は暗いままだった。

電気をつけるのが、なんとなく億劫だった。

スーツのまま、しばらく玄関に立っていた。

帰ってきても、誰も「おかえり」とは言わない。

言わないことに、もう慣れている。

慣れたつもりで、いる。

ネクタイをゆるめた。

靴下を脱ぐ。

フローリングが、足の裏にひやりと来た。

その冷たさだけが、今日いちばん確かな感触だった。

二十三時すぎ。

テレビをつけた。

見たい番組が、あるわけじゃない。

無音の部屋に、耐えられないだけだった。

音は、小さく絞ってある。

画面の中で、誰かが口を大きく開けて笑っている。

笑い声は、ずっと遠くで鳴っていた。

冷蔵庫を開けた。

缶ビールが、一本。

昨日の総菜が、ラップをかけたまま残っている。

それには、手を伸ばさなかった。

プルタブを起こす音が、やけに大きく聞こえた。

ひとくち飲んで、ソファに沈む。

ビールは、とっくに冷たさを失っていた。

充電器を探して、引き出しを開けた。

コードの束の下から、古い写真が一枚出てきた。

海だった。

誰かと並んで、肩を寄せて笑っている。

日付の記憶は、もうない。

写真を、元の場所に戻した。

裏返して、その上にコードを乗せた。

窓の外で、雨が降りはじめたらしい。

ガラスを伝う線が、街の灯りを滲ませている。

零時を回った。

スマホを、手に取った。

特に、用はない。

ニュースを流し読みする。

明日の天気を、確かめる。

指が、行き場をなくして画面をさまよった。

検索窓のカーソルが、点滅している。

そこに、ひとつの名前を打った。

打って、止まる。

名字と、名前。

たった四文字。

それだけのことが、やけに重い。

昔は、毎日のように呼んでいた。

今は、もう何年も口にしていない。

声に出したら、どんな響きだったか。それも、思い出せなかった。

一文字、消した。

また打った。

また消した。

その指の動きを、何度繰り返しただろう。

画面の明かりが、暗い天井に届いては消える。

一時すぎ。

結局、検索のボタンを押した。

写真が、並んでいく。

知らない街。

知らない店。

知らない笑顔。

隣に、知らない男がいた。

小さな子どもが、女の膝で口を開けて笑っている。

幸せそうだった。

よかった、と思う。

そう思えた自分に、少しだけ驚いた。

ただ、おかしなことがあった。

その顔が、うまく像を結ばない。

覚えているはずの顔と、画面の中の顔。

そのあいだに、薄い膜のようなずれがある。

笑い方も。

髪のおろし方も。

目尻に寄るしわも。

どれも、少しずつ違っていた。

記憶のほうが、どこか若かった。

どこか、優しすぎた。

会いたかったのは、この人だったか。

それとも、この人を好きでいられた頃の、自分のほうか。

しばらく、画面を見つめたまま動かなかった。

雨の音が、急に近くなった気がした。

二時。

スマホを裏返して、テーブルに置いた。

光が消えて、部屋が一段、暗くなる。

キッチンに立った。

やかんに、水を入れる。

火にかけると、青い炎が、暗い台所をぼんやり照らした。

湯が沸くまでの数分が、やけに長い。

冷蔵庫が、低く唸っている。

雨は、まだ降っていた。

戸棚から、インスタントの粉を出した。

マグに落として、湯を注ぐ。

甘ったるい匂いが、ふわりと立った。

コーンスープだった。

こんな時間に、飲むものじゃない。

それでも、両手で包むと、少しだけあたたかい。

ひとくち飲む。

舌の先が、じんと熱を持った。

顔がうまく思い出せないのは、もう、十分に遠くまで来たということかもしれない。

ソファに、戻る。

テレビは、まだついていた。

誰かが、音のないまま笑っている。

検索の履歴は、消さなかった。

消すほどのものでも、もう、なかった。

引き出しの中の写真も、明日になれば、たぶん忘れている。

雨が、屋根を撫でていく。

朝までには、やむだろう。

男はマグを両手で持ったまま、ゆっくり目を閉じた。

― 了 ―
夜の兄貴ぽるねこ / 眠れない夜の短編

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