明け方の電話
二十三時すぎ。
雨が、降りはじめていた。
会社を出たときは、まだ降っていなかった。残業で遅くなって、駅前のコンビニで弁当を買った。袋を提げて外に出たら、アスファルトが黒く濡れている。傘は、持っていない。
軒先で、知らない誰かが空を見上げていた。
その横を通り過ぎて、足早に帰る。肩のあたりが、少し濡れた。
部屋に着いて、明かりをつけた。弁当を電子レンジに入れる。皿が回る音を聞きながら、なんとなく窓の外を見ていた。雨は、さっきより強くなっている。天気予報では、降るとは言っていなかった気がする。
テーブルについて、弁当の蓋を開けた。テレビをつける。見たい番組があるわけじゃない。ただ、部屋が静かすぎると落ち着かない。冷蔵庫が、低い音で唸っていた。
割り箸を割ったところで、手が止まった。
理由は、わからない。
胸の奥が、急にざわついた。
何かを、忘れている気がする。
いや、忘れているんじゃない。
何かが、よくない。そういう感じだ。
弁当の湯気が、ゆっくりと消えていった。
箸は、持ったままだった。
日付が変わった。
弁当は、半分残したまま冷めていた。
スマホを手に取って、連絡先を開く。意味もなくスクロールしていた指が、ひとつの名前で止まった。
母
最後に電話したのは、いつだったか。
思い出せない。正月に帰ったときに、何か話した気はする。
あのとき母は、駅の改札まで見送りに来た。両手に、野菜を詰めた紙袋を提げて。重いからと渡された袋を、東京のアパートで一週間かけて食べきった。
玄関先じゃなく、改札だった。また来るから。そう言った。
あれから、半年が経っている。
父が逝って、二年。
あの家には、母が一人で住んでいる。
電話のアイコンを、しばらく見ていた。
こんな時間にかけたら、驚かせる。もう寝ているはずだ。何かあったわけでもない。
ただの、気のせいだ。
スマホを裏返して、テーブルに置いた。
画面が暗くなる小さな音が、やけに大きく聞こえた。
一時。
雨が、屋根を叩いている。
眠れなかった。
布団に入っても、目だけが冴えていく。あきらめて起き上がり、やかんを火にかけた。湯が沸くまでの音を、ぼんやり聞いていた。
子どもの頃、熱を出した夜のことを思い出した。
母が枕元に座って、濡らしたタオルを何度も替えてくれた。冷たいタオルが額にのるたびに、少しだけ楽になった。眠りに落ちる間際、まだ母がそこにいるのを、気配で確かめていた。
あのとき母は、何時間、起きていたんだろう。
逆になっていたことに、半年も気づかなかった。
一人で眠る夜に、母は何を思っているのか。
考えたことが、なかった。
カップに湯を注ぐ。茶の葉が、底でゆっくりと開いていく。
湯気が、顔にあたる。それを、ただ見ていた。
二時半。
もう一度、スマホを手に取った。
画面の明かりが、暗い部屋にぼんやりと浮かぶ。
母の番号を、画面に出した。
親指が、通話ボタンの上で止まる。
こんな夜中にかけて、何を言うつもりなんだ。
元気か、とでも聞くのか。
半年も放っておいた息子が、急に。
それに、もし。
もし、出なかったら。
その先を、考えたくなかった。
外で、雨の音が続いている。
その音だけが、部屋を満たしていた。
結局、ボタンは押さなかった。
スマホを胸の上にのせて、目を閉じる。
明日かければいい。
明日の昼、声が聞きたくなった、とでも言えばいい。
そう、自分に言い聞かせた。
胸の上で、スマホがゆっくりと上下していた。
気づくと、窓の外が白んでいた。
雨は、いつのまにかやんでいる。
窓を少し開けると、濡れた土の匂いがした。冷たい空気が、足元を通っていく。鳥が、どこかで鳴きはじめていた。
スマホを見た。
通知は、ない。何も、起きていない。
胸のざわつきは、夜のあいだに、どこかへ薄れていた。
たぶん、気のせいだったんだろう。
寝不足と、雨と、ひとりの夜が、つくった重さだ。
それでも、七時になるのを待って、電話をかけた。
二回目のコールで、母が出た。
どうしたの、こんな朝早く
眠そうな、いつもの声だった。
何でもない、と言いかけて、やめた。
いや。声、聞きたくなっただけ
電話の向こうで、母が小さく笑った。
庭の草むしりがどうとか、近所の話を、母はとりとめもなく続けている。
その声を聞きながら、窓の外を見た。
朝の光が、濡れた地面に少しずつ伸びていた。

